1949年6月 インドは自衛のための武器をチベットへ供給することに応じる。
1949年7月8日 カシャ(内閣)はラサにいる中国特使を追放する。1940年に中国の国民党政府によって創設された特使団制度は、チベットに共産主義勢力をもたらす布石になると畏怖されていた。共産主義シンパらもチベットから追放される。その中にはチベット東部( 現在は中国四川省に組み込まれている)のカムのバタン出身の知識人ペンツォ・ワンゲもいる。
1949年9月29日 中国人民議会は満場一致で、朱徳人民解放軍最高司令官の一般要綱を認める。それは革命戦争の終結と、台湾・台湾海峡の64の島々、海南島そしてチベットを含む中国の総ての領土の解放を求めるものである。
1949年10月1日 毛沢東は北京天安門にて中華人民共和国建国を宣言する。チベット摂政タラは、カシャ内閣を再組織すべきというチベット国家会議の意見を是認する。内閣も国家議会との協議なしに行動する権力を持つ。
1949年11月2日 チベット政府は毛沢東に、チベットの独立の立場を述べ、領土が侵略されないよう求めた手紙を送る。チベット外務局は当時のイギリス外務大臣アーネスト・ビバンに、イギリスからの支援を短信で求める。同様のことをアメリカにも求める。
1949年12月3日 カシャ内閣はイギリス政府に、国連へのチベットの参加を支援するよう求める電報を送る。
1950年1月12日 アメリカ国防長官ディーン・アチソンは、アメリカのインド大使ロイ・ヘンダーソンに、チベット政府がアメリカに使節を派遣するのを思いとどまらせるよう指導する。
1950年1月31日 中国の脅しの結果創設されたラサラジオは、チベットが中国の一部であるとする北京政府の主張に反対する。放送で、チベットは満州国が崩壊した1912年からずっと独立していると述べる。
1950年4月 中国南部の海南島が中国共産主義政府に占領される。
1950年5月6日 青海地方アムド出身の優秀なチベット仏教学者ゲシェ・シェラ・ギャッツォは、中国がチベット解放に必要とあらば武力を用いるだろうことを、ラジオ放送でチベット人民とダライ・ラマにそれとなく告げる。5月末中国の人民解放軍とチベット人とのよりにある)デンゴが中国に陥落する。
1950年10月 中国は、チベットへの全面的な軍事的侵略に着手し、カムにある戦略的に重要な都市で現在チベット自治州の一部であるチャムドを奪おうとする。
10月10日 中国政府はチベットに関する最初の大まかな方針を述べる。それは後に1951年5月23日に結ばれた17条協定になるもので、それ以来その協定はチベットに対する中国支配を正当化するために北京政府に利用されている。
10月19日 チャムド陥落。チャムド統治者ガボ・ガワン・ジメは人民解放軍に捕らえられる。
1950年11月13日 チベット政府はニューヨークの国連本部に緊急の支援要請をする。
1950年11月17日 ダライ・ラマはこの危機的な状況に際して、ラサで16歳にして宗教的、政治的全権力 を掌握する。
雪の国のドラゴンから:1947年からの現代チベットの歴史 著ツェリン・サキャWTN より
現在のチベット
1959年から中国の植民地となる
チベット全土1949年迄 250万km2
チベット全土の人口 約600万人
中国人による拷問死 173,221
餓死 34,297
中国人による刑死 156,758
自殺 9,002
戦闘 432,705
傷害致死 92,731
合計 1,207,387人死亡
彼はそれまで、共産党に気に入られていたので、この文書を書くの はすごく勇気のいることだ。
TINが入手した秘密文書には、大量逮捕、政治的処刑、また1960年代初頭にチベットを襲った人為的な飢餓を記録していた。また、中国
に協力していた幹部チ ベット人たちが、中国の政策について深い憂慮の念を抱いていたことが明らかになった。そして、最近またその
憂えるべき状況の幾つかが再現され始めている。
この文書には、チベットを襲った大規模な飢餓は当時の政府命令によるものとしており、中国の政策が宗教を根絶やしにすることを目的 としており、また、 チベット民族の独自性を抹殺する結果となるのではないか、と既に文化革命の4年前に憂慮の念を表明していた。 同文書には共産党内部からのものを別として、同時代に指導者層に提出された文書の中では、恐らく最も本格的な中国共産党批判をし ており、毛沢東 が 「反動的封建領主層から共産党に対して射られた毒矢 」と評した、と言われている。この文書は1959年にペン・デファ イ将軍を失脚させる原因となった、有名な1万文字の党批 判の手紙を凌ぐ、と後に評された。
この文書は、チベットに留まった最高位の宗教指導者で、当時のチ ベット政府主席の先代パンチェン・ラマによって書かれた。
パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府主席としてこの文書を、中国首相周恩来に送った。中国統一戦線部の部長リー・ ウェイハンは、約3ヶ月 間文書内にある提案の幾つかを実行した。しかし、同年8月毛沢東は階級闘争の中止を命令し、リーはパンチェ ン・ラマとの関係を批判された。同月にパンチェン・ラマは自己批判するように命令され、1年後にはラサで50日間の闘争集会に掛けら れ、そして北京へ送 還された。そこで彼はその後15年の内の14年間を拘留あるいは軟禁状態で過ごすことになる。パチェン・ラマは
1966年文化大革命の時レッド・ガードに捕まり、2ヶ月間拷問され、そして1968年人民解放軍に正式的に逮捕され、刑務所で9年間拷
問を受けた。
パンチェン・ラマが完全に復活するのは1988年になってからで、彼が亡くなる1年前のことであった。 「7万字の請願書 」として知られて いる彼の文書は秘密 にされたままであり、これまで中国共産党内部以外では目にしたものはいなかった。
大量逮捕と飢饉
120ページにも及ぶ文書は8項目に分かれており、1961年及び1962年初頭にパンチェン・ラマが、全チベット人居住地域を調査旅行し
た時の状況が詳細に述 ベられている。主要な批判の一つは、1959年のチベット人決起に対する政府の過剰な報復的処罰に向けられてい た。 「どれ位の数の人が逮捕されたのか知る術もない。各地域で、それぞれ1万人以上の人が逮捕されている。善人でも悪人でも、無罪で も有罪でも、みん な逮捕されてしまった。世界のいかなる場所に存在する、いかなる法制度にも合致しないことだ。地域によっては、 男性の大多数が逮捕され監獄に収監されてしまったので、 殆どの仕事が女性や老人また子供によってされている 」と書かれている。
連帯責任を追求する処罰が政策として実施されているのではないか、との疑いが指摘されており、親戚が決起に参加したという理由でチベ ット人たちが処刑 されている。また、政治犯が死んでしまうように役人たちは意図的に政治犯を苛酷な環境に追いやっている、とも
告発している。 「反逆者の家族たちも死ぬように命じられて いる。役人たちは人々を彼らが慣れていない環境の刑務所に思慮深く送っている。その ため不自然死が極端に多い 」と、書かれている。
北京の指導者を説得してチベット人を餓死させることを止めさせようとする点に、請願書は最も力を込めている。特に東チベットでは既
に集団農場(人民 公社)が設立されていた。 「特にあなた方は民衆が飢え死にすることがないよう、保証するべきだ 」と請願書は周恩来首 相に宛てた最終項で述べている。