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明かされたパンチェン・ラマ7万字の請願書
タシ・ツェリン
昔のチベットでの生活


歴史年表

1949年6月 インドは自衛のための武器をチベットへ供給することに応じる。

1949年7月8日  カシャ(内閣)はラサにいる中国特使を追放する。1940年に中国の国民党政府によって創設された特使団制度は、チベットに共産主義勢力をもたらす布石になると畏怖されていた。共産主義シンパらもチベットから追放される。その中にはチベット東部( 現在は中国四川省に組み込まれている)のカムのバタン出身の知識人ペンツォ・ワンゲもいる。

1949年9月29日 中国人民議会は満場一致で、朱徳人民解放軍最高司令官の一般要綱を認める。それは革命戦争の終結と、台湾・台湾海峡の64の島々、海南島そしてチベットを含む中国の総ての領土の解放を求めるものである。

1949年10月1日 毛沢東は北京天安門にて中華人民共和国建国を宣言する。チベット摂政タラは、カシャ内閣を再組織すべきというチベット国家会議の意見を是認する。内閣も国家議会との協議なしに行動する権力を持つ。

1949年11月2日 チベット政府は毛沢東に、チベットの独立の立場を述べ、領土が侵略されないよう求めた手紙を送る。チベット外務局は当時のイギリス外務大臣アーネスト・ビバンに、イギリスからの支援を短信で求める。同様のことをアメリカにも求める。

1949年12月3日 カシャ内閣はイギリス政府に、国連へのチベットの参加を支援するよう求める電報を送る。

1950年1月12日 アメリカ国防長官ディーン・アチソンは、アメリカのインド大使ロイ・ヘンダーソンに、チベット政府がアメリカに使節を派遣するのを思いとどまらせるよう指導する。 

1950年1月31日 中国の脅しの結果創設されたラサラジオは、チベットが中国の一部であるとする北京政府の主張に反対する。放送で、チベットは満州国が崩壊した1912年からずっと独立していると述べる。

1950年4月 中国南部の海南島が中国共産主義政府に占領される。

1950年5月6日 青海地方アムド出身の優秀なチベット仏教学者ゲシェ・シェラ・ギャッツォは、中国がチベット解放に必要とあらば武力を用いるだろうことを、ラジオ放送でチベット人民とダライ・ラマにそれとなく告げる。5月末中国の人民解放軍とチベット人とのよりにある)デンゴが中国に陥落する。

1950年10月 中国は、チベットへの全面的な軍事的侵略に着手し、カムにある戦略的に重要な都市で現在チベット自治州の一部であるチャムドを奪おうとする。
  10月10日 中国政府はチベットに関する最初の大まかな方針を述べる。それは後に1951年5月23日に結ばれた17条協定になるもので、それ以来その協定はチベットに対する中国支配を正当化するために北京政府に利用されている。
  10月19日 チャムド陥落。チャムド統治者ガボ・ガワン・ジメは人民解放軍に捕らえられる。

1950年11月13日 チベット政府はニューヨークの国連本部に緊急の支援要請をする。

1950年11月17日 ダライ・ラマはこの危機的な状況に際して、ラサで16歳にして宗教的、政治的全権力 を掌握する。 
雪の国のドラゴンから:1947年からの現代チベットの歴史 著ツェリン・サキャWTN より

現在のチベット

1959年から中国の植民地となる
チベット全土1949年迄 250万km2
チベット全土の人口 約600万人
   
中国人による拷問死 173,221
餓死 34,297
中国人による刑死 156,758
自殺 9,002
戦闘 432,705
傷害致死 92,731
合計 1,207,387人死亡


中国のチベット全土集団制裁  

明かされたパンチェン・ラマ7万字の請願書

彼はそれまで、共産党に気に入られていたので、この文書を書くの はすごく勇気のいることだ。

TINが入手した秘密文書には、大量逮捕、政治的処刑、また1960年代初頭にチベットを襲った人為的な飢餓を記録していた。また、中国
に協力していた幹部チ ベット人たちが、中国の政策について深い憂慮の念を抱いていたことが明らかになった。そして、最近またその
憂えるべき状況の幾つかが再現され始めている。
この文書には、チベットを襲った大規模な飢餓は当時の政府命令によるものとしており、中国の政策が宗教を根絶やしにすることを目的 としており、また、 チベット民族の独自性を抹殺する結果となるのではないか、と既に文化革命の4年前に憂慮の念を表明していた。 同文書には共産党内部からのものを別として、同時代に指導者層に提出された文書の中では、恐らく最も本格的な中国共産党批判をし ており、毛沢東 が「反動的封建領主層から共産党に対して射られた毒矢」と評した、と言われている。この文書は1959年にペン・デファ イ将軍を失脚させる原因となった、有名な1万文字の党批 判の手紙を凌ぐ、と後に評された。
この文書は、チベットに留まった最高位の宗教指導者で、当時のチ ベット政府主席の先代パンチェン・ラマによって書かれた。
パンチェン・ラマは1962年5月18日に、チベット政府主席としてこの文書を、中国首相周恩来に送った。中国統一戦線部の部長リー・ ウェイハンは、約3ヶ月 間文書内にある提案の幾つかを実行した。しかし、同年8月毛沢東は階級闘争の中止を命令し、リーはパンチェ ン・ラマとの関係を批判された。同月にパンチェン・ラマは自己批判するように命令され、1年後にはラサで50日間の闘争集会に掛けら れ、そして北京へ送 還された。そこで彼はその後15年の内の14年間を拘留あるいは軟禁状態で過ごすことになる。パチェン・ラマは
1966年文化大革命の時レッド・ガードに捕まり、2ヶ月間拷問され、そして1968年人民解放軍に正式的に逮捕され、刑務所で9年間拷
問を受けた。
パンチェン・ラマが完全に復活するのは1988年になってからで、彼が亡くなる1年前のことであった。「7万字の請願書」として知られて いる彼の文書は秘密 にされたままであり、これまで中国共産党内部以外では目にしたものはいなかった。

大量逮捕と飢饉

120ページにも及ぶ文書は8項目に分かれており、1961年及び1962年初頭にパンチェン・ラマが、全チベット人居住地域を調査旅行し
た時の状況が詳細に述 ベられている。主要な批判の一つは、1959年のチベット人決起に対する政府の過剰な報復的処罰に向けられてい た。「どれ位の数の人が逮捕されたのか知る術もない。各地域で、それぞれ1万人以上の人が逮捕されている。善人でも悪人でも、無罪で も有罪でも、みん な逮捕されてしまった。世界のいかなる場所に存在する、いかなる法制度にも合致しないことだ。地域によっては、 男性の大多数が逮捕され監獄に収監されてしまったので、 殆どの仕事が女性や老人また子供によってされている」と書かれている。
連帯責任を追求する処罰が政策として実施されているのではないか、との疑いが指摘されており、親戚が決起に参加したという理由でチベ ット人たちが処刑 されている。また、政治犯が死んでしまうように役人たちは意図的に政治犯を苛酷な環境に追いやっている、とも
告発している。「反逆者の家族たちも死ぬように命じられて いる。役人たちは人々を彼らが慣れていない環境の刑務所に思慮深く送っている。その ため不自然死が極端に多い」と、書かれている。

北京の指導者を説得してチベット人を餓死させることを止めさせようとする点に、請願書は最も力を込めている。特に東チベットでは既
に集団農場(人民 公社)が設立されていた。「特にあなた方は民衆が飢え死にすることがないよう、保証するべきだ」と請願書は周恩来首 相に宛てた最終項で述べている。

「チベットの多くの地域で民衆は餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は非常に高い。過去に於い
てチベットは非 常に野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無く、特に仏教が広まってからはそうで あった」とパンチェン・ラマは書いている。「チベットの 民衆は極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前だ。

あるいは、非常に衰弱し病気に抵抗できなくて死んでいる」とつけ 加えている。人々を公共食堂で食事させるように決定された結果、人々は一日あたり 180グラムの、草や葉っぱや樹皮の加えられた小麦の配給を受けることが許された、と 彼の文書に記されている。「この恐るべき配給は、命を支えるには十分でなく、人々は 恐ろしい苦痛に苛まれている」と彼は述べ、人々特に釈放された囚人たちは強制労働に 従事させられている、と付け加えている。「チベットの歴史上、こんな恐ろしいことは 起きたことがない。人々は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することは出来なか った。地域によっては1人が風邪を引くとそれが数百人に広がり、そして多数の人間が ただ死ぬだけだ」その中心的な項でパンチェン・ラマが明らかにしているのは、これら の死が正式な政策によって生み出された殺戮であった、ということだ。毛沢東は外国か らの訪問者に対しそれは自然災害のせいだと主張し、また西洋の中国学者の中にはまだ その主張を認める者もいるが、自然災害によるものでは決してなかったという。「チベッ トでは1959年から1961年までの2年間、放牧と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧 民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも無かった。いかなる食料も材料も 輸送することが禁じられた。携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々 がそれに抵抗し、各地で抗争が起こった」と彼は述べている。彼は続けて、彼が招集し た青海省の集会で村人たちが語った言葉を引用している。「もし国家が私たちが腹一杯 食べることを許してくれれば」、死は避けられ豊かな収穫も達成できただろう。

1959-61年の中国大飢饉

パンチェン・ラマが文書の中で述べている飢饉は1958年の大躍進運動の結果、中国全土に広がった。毛沢東は楽園としての共産主義を
実現するための政策を、極端 に加速させるため農民に集団農場の設立を命じた。1959年8月に開催された共産党会議までに、劉小奇や トウ小平に率いられた実務派の指導者たちは毛沢東の計画の実行を抑制し始めていた。「7万字の請願書」は1962年には青海省に飢餓が存 在していたことを示している。また他の証拠が示すところでは四川省内に隣接するチベットの領域であるカム地方では、1965年まで 飢餓 が続いていた。

公に入手可能な中国の公式文書は、この問題に言及することを避けてお り、詳細に触れずに遠回しに「苦難の3年間」とだけ述べている。

北京の経済制度研究所が1980年代初頭に出した報告書では、この飢饉時にパンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45パー セントに当たる90万人が死亡し たと公表している。そしてこの飢饉に関する大部分の著書を今年発表した、ジャーナリストのジェス パー・ベッカーの研究によると、四川省では900万人が死亡したという。「中国のいかなる民族も、この飢饉によってチベット人ほどの 苛酷な苦難に直面した人々はいない」と ベッカーは語り、その後20年間中央チベットには風土病として飢餓が残ってしまった、と付け 加えている。

ベッカーや他の研究者の論点は、飢饉の間も中国は輸出をしており、飢饉を起こした真の原因は、中国の極端な秘密主義と、西洋の学者 やジャーナリストまた政治 家の中に、例えば有名なフランシス・ミッテランのように、「問題は自然災害とソ連の援助が中止されたため に起きた」とする、中国の主張を喜んで受け入れられる人々がいた為である、という点にある。ベッカーや他の研究者たちは中国が大躍 進運動の後もずっとこの人為的な 飢饉のことをひた隠しにして来たことを発見したが、パンチェン・ラマの請願書はこの事実を裏付け ているように思われる。請願書はまた、チベット人亡命者が当時申し立てていた事実、その申し立ては最近まで西洋社会では大っぴらに 物笑いにされてきたことであるが、そ の事実も裏付けている。国際法律家委員会が1960年にまとめた報告書は、チベットにおいてジェ ノサイド(民族滅亡を意味する大虐殺)があったとの明らかな証拠があると述べており、 請願書はその見解を裏付ける結果となっている。

宗教と民族への脅威

パンチェン・ラマ自身が、中国の政策がチベット人の民族としての生存を脅かしているのではないかとの懸念を、請願書の中で表明して いた。「チベット人の人口は、 極端に減少してしまった。これはチベット民族の繁栄に影響を及ぼすだけでなく、チベット民族の生存を も脅かす重大な脅威であり、チベット民族を息も絶え絶えの状態に追い込み兼ねない」と彼は書いている。この項は、周恩来によって強 く拒絶された、と言われている。

パンチェン・ラマが請願書を書いたのは、民族統一戦線のリー・ウェイハンに励まされたからであった。リーはまたトウ小平に報告書を書 き、パンチェン・ラマの請 願書が中国全土を覆った極左派に対抗する資料として、使われることを願っていた。しかし、他のチベット人 指導者は、ガポ・ガワン・ジグメも含めて、パンチェン・ラマにそれを文書で提出しないように懇願していた、と1989年にチベット学 者のジャンペェル・ギャッツォが 北京で出版した伝記は伝えている。当時僅か24才であったパンチェン・ラマは、共産党員ではなかった し大変な危険に直面するおそれがあった。特に前年、比較的自由な雰囲気が既に弱まりを見せていた。また、パンチェン・ラマは毛 沢東に対して直接、多くの不満を申し立 てたことがあり、それを公にしようとの準備を進めることは危険であった。しかしそれでもパン チェン・ラマは、飢饉と大量逮捕の事実だけの報告に留まらず、中国の政策を批判する 文書を書くことを決意した。

こうして請願書は、中国民族・宗教政策を強く攻撃する形となった。チベット人自身が、民族としてのチベット人を消滅させることも可 能である、とも述べている。 「ある民族の言語や民族衣装、また習慣を取り去ってしまったならば、その民族は消滅し別の民族に変化し てしまうだろう。チベット人が別の民族に変化しない、とどうして我々が保 証できるだろうか」と彼は問いかけている。

請願書のこの部分が、宗教政策に対する彼の批判と共に、最も危険な部 分である、とみなされた。パンチェン・ラマは、僧院を改革する運動については全面的に支 持したが、北京の指導者の指示に従わない地元の左派を悪用することについては、共産党が 宗教を消滅させようとしている、と強い非難を表明した。彼は、宗教は絶対に正しいもので あり、それを完全に消滅させようとすることは、反乱にまでは至らなくても重大な不安定状 態を生み出すことになろう、と述べている。

「(現在チベット自治区となっている地域には)かつて2500寺の僧院が存 在していたが、今では70寺が残っているだけで、93パーセントの僧と尼僧が追放された」と 文化大革命の4年前に彼は書いている。しかし、通常チベットの僧院を閉鎖したのは文化大 革命であった、と言われることが多い。

「共産党幹部たちは、少数の人々を使って宗教を非難し、それがチベット 人全体の意見である、との誤った見解を導き出し宗教を抹殺する時期が来た、との結論を出 す。そのために、覚醒を生み出す仏の教えはチベット全土で栄えたが、今や我々の目の前で チベットの大地から消し去られようとしている。私を含めた90パーセントのチベット人は、 これには決して耐えられない」

請願書は、その時代の重大な争点にも関連性があった。1980年パンチェ ン・ラマは中国人の改革者、共産党総書記の胡耀邦に会った。そして胡がその年にチベット で導入した解放政策に祝いの言葉を述べた。「パンチェン・ラマは、胡の改革にどれほど感 動したかを彼に告げた。そして[7万字の請願書]の中でパンチェン・ラマが提案したこと が、もしその時実行されていたなら、チベットの問題はもうとっくに存在していなかったこ とであろう、と述べた」と現在アメリカで仕事をしている、チベット人ジャーナリストのツ ェテン・ワンチュは回想している。彼は、1980年に胡とパンチェン・ラマが会ったときに、 その場に同席していた。胡の改革に対する共産党の批判によって1987年に彼は失脚し、そ れがその年と1989年の中国の重大な混乱に結びついた。

パンチェン・ラマの1962年の請願書は政策決定者はチベットの特殊性 を考慮に入れるべきである、との前提に基づいていた。この前提は1980年代のトウ小平の政 策の中心となっており、パンチェン・ラマがチベットで様々な自由化を進めることを可能 にていた。1992年初頭、共産党は「チベットの特殊性」に対する配慮を撤回し、宗教活動を 制限する現在の状況を生み出し、政治的に忠誠心を持つ僧侶を僧院の管理委員会に選出し、 チベット語教育に制限を加え、パンチェン・ラマの求めに応じて胡が導入した、宗教と自 由化の流れを逆流させてしまった。

ティベッタン・レヴュー11号より 友愛会ヴォランティアーによる日本語訳


タシ・ツェリン

ザ・インディペンデント 2000年10月10日号
カルム・マックロード

先週、チベットの区都ラサでは大勢の市民が太陽の光あふれる通りに集まっていた。休日の群集はのどかで、ポタラ宮前の広場へ国慶節の祝賀式典を見物する為に集まっていた。しかし、それは同時に中国公安当局もそこに居ることを意味している。主であるダライ・ラマが居ない冬の宮殿がつくる日陰では、中国兵が中華人民共和国成立51周年を祝う赤い中華人民共和国国旗に敬礼していた。
今週、チベットの人々は、チベット近代史におけるもうひとつの悲惨な記念日をむかえる。しかし、その日には無謀な人々が危険を冒して記念行事を行なうだけだ。1950年10月7日毛沢東主席の人民解放軍4万人が中国南西部から揚子江上流部を渡って東チベットへ侵入した。国境線周辺の貧弱な武装の400人の軍隊は中国軍の侵攻に瞬く間に打ちのめされた。
それは、一方的な軍事作戦の第一歩だった。チベットを服従させ、ダライ・ラマ法王を祖国から追放し、今なお続く残忍な占領が始まったのだ。世界は、このことを見過ごしていた。当時、アジアが注目されていた。しかし、その焦点は朝鮮半島に当てられていたのだった。朝鮮半島には、国連軍が北朝鮮の侵攻を阻止する為に派遣されていた。
それは、一方的な軍事作戦の第一歩だった。チベットを服従させ、ダライ・ラマ法王を祖国から追放し、今なお続く残忍な占領が始まったのだ。世界は、このことを見過ごしていた。当時、アジアが注目されていた。しかし、その焦点は朝鮮半島に当てられていたのだった。朝鮮半島には、国連軍が北朝鮮の侵攻を阻止する為に派遣されていた。
ラサや東部の町チャムドの僧達は、懸命に祈り、やって来る不幸をかわす為に儀式を執り行なった。チベットと中国の軍事力の差は、神の力の介入を期待するしかないものであった。10月19日にチャムドは陥落し、その月の終わりには人民解放軍はチベット軍のほぼ半分に当たる5000名の軍人を捕虜とした。チベット軍と言っても、鎖国状態の国境を警備する程度の軍備しかない軍隊なのだ。
チベットの全ての面において指導者である第14代転生者テンジン・ギャッツォは、まだ16才だったが、この重大局面に立ち向かう為即位を通常より2年早めて戴冠式を行なった。後にダライ・ラマは「私は、自分が少年である事を忘れ、祖国の為、強大な共産主義の国中国に緊急に対処するべくその先頭に立たなくてはならなかった。」と述べている。
人民解放軍は、なんなくラサに入る事が出来たが、首都の「平和的解放」を目指して交渉の為の時間をとった。この間にチベットは英国、インド、合衆国、そして国際連合へ1912年中国最後の王朝の崩壊以降、彼らは事実上独立している事を主張する書簡を送った。しかし、事実上の独立を十分に証明できなかった。チベットは国際連合の前身である国際連盟に参加していなかった。「我々は、自分達の独立に関して国際社会に対し法的な証拠が必要とされるとは、考えていなかった。」とダライ・ラマは自叙伝「チベット我が祖国」 (1962)の中で述べている。国連は朝鮮問題に没頭していて、チベット占領問題は後回しにされていた。「我々は、国際社会から隔絶された地で孤立して暮している民族にとって世界は小さくなってしまったのだという苦い教訓を与えられた。」
ラサ政府と北京政府の間で結ばれた1951年5月の協定書では現状を維持することが約束された。10月、タシ・ツェリンは1904年に聖なる都を初めて訪れた西欧人大英帝国のヤングハズバンド探検隊が通った同じ門から人民解放軍が入場してくるのを見た。遥かかなたの尊大な国の軍事大演習ではなかった。この一団は、強大な国の力を背景に社会・政治・経済の革命的思想を誇っていた。
彼らの手法は、タシのような若者達を魅了した。彼は無神論者の中国人兵士が釣り針に虫を刺したり、野菜畑に下肥を撒いたり(「私はなんて汚い、絶対に中国の野菜は食べないぞ、と思った。」)するのを見て驚いた。彼らの能率の良さや誠実さに感心した。「私は、彼らが一般市民から針一本でも奪い取ったと聞いた事が無い。」
それとは対照的に、タシの勤めるポタラ宮は「略奪の巣窟だった。同僚達は、腐敗を指摘した私を恨んでいた。それはまるで卵の殻のようなものだ。つまり外側はそのままだが、中身は腐っている。」しかしそれでも、タシには職があるだけ幸運だった。「拡声器がラサの中心部に設置されて、チベット人に向けてプロパガンダを流していた。」と、タシは語った。「私は、これらの新しい考え方;社会主義、共産主義、資本主義、帝国主義、とは一体なんのだろうか、と考えつづけていた。初めて耳にする言葉だった。」
タシは中国のチベットを中国へ統一する努力に驚かされた。「人民解放軍は、信じられないくらい一生懸命働いた。チベット−上海間、チベット−四川間の道路を建設して1954年に完成させたのだ。それ以前は、人間と動物が歩いて通る細い道があるだけだった。」それにもかかわらず表面上の寛大さの下には緊張があった。毛主席はダライ・ラマとの会談で「宗教は毒だ。」と述べた。中国は、チベットの貴族・僧階級が彼らの農奴や小作人達を現世では暴力で、来世では地獄に落ちるという恐怖で支配・搾取している状態を打破すると決めていた。毛主席は“民主改革”を1962年まで延期することに同意していた。しかし、1959年のラサ蜂起によって中国統治の蜜月期間は終わりを告げ、ダライ・ラマに続き8万人のチベット人の亡命生活が始まった。世界の興味は悲惨なヒマラヤ越えの逃避行に集まった。
タシは、新しい主義についてもっと学びたかったが、中国人からの蔑視で1957年にチベットを去りインドへ向った。そしてその後、アメリカ合衆国へ移った。1964年彼の友人達の警告やインド北部のダラムサラにある亡命政府への参加の要請にもかかわらず、彼はチベットに社会主義、民主主義、そして幸福を打ち建てる為に帰国した。
1966年文化大革命が始まった。タシは熱狂的な紅衛兵の一団の後をついて廻って、天安門広場で毛主席を見る事が出来た。その後すぐ、彼は反革命分子でアメリカのスパイだとして警察に連行された。
陝西省の刑務所に6年間収監された後、タシの名誉は回復され、1981年ラサのチベット大学で英語の教授に任命された。彼の長い空白期間に彼の兄弟は刑務所で餓死していた。彼の両親は、かろうじて半壊した僧院で生き延びていた。チベットでは、1959年には少なくとも1600の僧院があったが、1979年には10の僧院のみが活動しているだけだった。
この20年の間で、中国共産党はチベット人達の荒廃した国土の修復への動きに寛容になって来ている。チベット人社会を容認した訳ではないが、遊牧民に定住を強要することはなくなった。また、精神的な打撃が回復されるのはまだまだ難しいだろうが、僧院も再開された。
このような文化の侵害は、タシのライフワークに拍車をかけた。彼はチベット語の教育に熱心である。「チベット文化の柱は、チベット語である。言語が消える時、我々の文化の基礎が消える。そのようなことは、起きないだろう。しかし、チベット語が使われる事が少なくなってきている。特に若い人々の間で。私は彼らに言っている。『チベット語は、君達の先祖からの言語なのだ。習得して大事にするように。もし君達がチベット語を読んだり、書いたりできないならば、君は教養ある人とは言えない。』と。」
彼は、「英蔵漢対照詞典」を完成させた。そして彼自身のそして外国からの寄付で50校分の建設資金を調達した。彼は、これは、チベット独立運動よりも有効な手段であると主張する。「近代化は、私達の年代の者の義務である。私は到達できないようなゴールには、興味がない。1994年にアメリカでダライ・ラマとお会いした時、わたしは『チベット人は、中国人の政治が不当である時、反対する方法を知らなくてはならない。しかしまた、彼らと共存する方法も知らなくてはならない。』と申し上げた。政治は、過去にしばしばそうであったように人間に則ってではなく、法律に則って行なわれなくてはならない。」
侵攻以来半世紀が過ぎたが、チベット亡命政府とラサの傀儡行政府との間で交渉がもたれた事は無い。チベットへの中国人の流入が増加している現状の中、チベット人は現実主義のタシのようにチベット文化をどのようにして残して行くかを考えている人達と、この歴史ある国の文明を壊滅すると脅かす占領軍に対して武器をとって対抗するべきだと信じている人達に分類することができる。
     2000年10月WTNより


昔のチベットでの生活

鮮明な記憶
キャブジェ・ゲレ・リンポチェ

1939年に生まれたキャブジェ・ゲレ・リンポチェはダライラマ13世の血縁にあたり、チベットの最高位のラマの生まれ変わりの一人息
子である。その神聖な家系のためにこのリンポチェの家族はチベット社会の崇拝される地位にあって、ラサの都市部とその周辺の屋敷で
快適に暮らしていた。まだ幼い頃、チベット政府の摂政によってある有名な僧院長の生まれ変わりであると認定された。リンポチェは1959年にインドの避難所に逃亡を余儀なくされるまでチベットにあるある僧院で教育を受けた。リンポチェは1987年に今度は米国へ移り、今はミシガン州に住んでいる。下記の手記は、リンポチェが独立していた頃のチベットで送った若き日についてのものである。
私が5,6歳の頃に、私の個人教師たちは私がテキストをいとも簡単に、2,3時間で30から40ページほども暗記できることを知った。彼らは夕方にやってきては、私に覚えた
ことを暗誦させた。時々私は暗誦中に眠ってしまったので、私が眠っているのがわかると彼らは私を立たせていた。それでも私は壁に寄りかかって暗誦しながら立ったまま眠ったものだった。それで今度は私は3階の部屋の窓際に立たされた。それでもなお私は窓の脇に背中を持たせかけて眠り、彼らが私をベッドに運ぶまで暗誦しつづけた。おそらくこのことから教師たちが私を生まれ変わりのラマだと呼んだのだろう。僧院に入ったときには厳しい修行を行い、粗末とも言える宿泊施設で暮らした。とても寒く、日課は厳しかった。朝早くおき、薄暗い中でお祈りや勉強をして、遊ぶ時間はほとんどなかった。
11歳のときに中国人がやってきた。彼らは自分たちのことを解放者といったが、私たちは彼らが私たちを誰から解放するのかわからなかった。私たち社会の上層に対して彼らが言うには、「われわれは君たちを帝国主義国の支配という西洋の魔の手から解放するために来た」のだった。実際のところ、当時チベットにいた西洋人はフォード氏たった1名で彼らは一般のチベット人たちには落ち着いてこういった。われわれは一般チベット人を私たちチベットの特権階級と体制から解放しているのだ、と。
当時チベットではルカンワという首相が活躍しており、中国人を堅固に扱うことで有名だった。彼は、「われわれは誰も攻撃しない。このことはわれわれ政府の宗教的側面における義務である。だが反対に、誰であろうとわれわれを攻撃するものがあれば、われわれは決して容認しない。これは非宗教的側面での規範による。われわれは自軍が全滅したとしても、腕を切り落とされても戦う。そしてもしチベット人を全滅させたとしても次は自然がその者と戦うのだ。」とよく言った。
それで中国人たちは首相と対話しようと試みた。彼らは、「チベット人は1日に何杯お茶を飲むか?」と聞いたが、彼は、「それはお茶がどのくらいおいしいかによる。もしおいしいお茶なら100杯飲むが、まずければ1滴も飲まない。この意味がおわかりか?」と答えた。
中国人たちのチベット「解放」の最初の方策は銀貨だった。私は12歳のとき日刊新聞の編集委員会の一員で、その給与として毎月銀貨300枚を受け取った。しかし私は1日もその職場で過ごしたこともなければその新聞を見たこともなかった。私の先生は「お金は毒だ。向こうへ放っておきなさい。いつの日か中国人たちはおまえに払い戻させるだろう」と言っていた。それで私たちは銀貨を箱にいれて家のどこか隅へおいた。これが中国が初めにチベットへ来て人々の行為を勝ち取ろうとしたやり方だった。
チベットのことを理想郷だと想像する西洋人もいるが、私たちはそれはどこか北のほうにあるといつも思っていた。チベットの気候は厳しく、容赦ない。とても寒く、乾燥
し、ほこりが立ちこめ、雪はあまり多くない。時に食糧を探すのに大変苦労する。
しかしダライラマが言っていたように、チベットは文化の質、教育の厳しさにおいて独特であり、それらはすべてのチベットの人々の中に体現されている。私たちは仏陀の知恵と慈悲の生きた伝統を得る幸運に会った。
WTNより1999年12月より